Red Rose

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 ミシェルの脇腹が完治するのに一ヶ月かかった。その間に庭には紅く、焔のような花が咲き乱れた。ジュリアはミシェルの世話を他の者に一切任せようとはせず、一人で行った。空いた時間を縫ってルイスがミシェルを茶化しにやってくる程度で、彼は落ち着いた日々を過ごした。

「リコリスの花言葉って、知ってる?」

 昼食を部屋へと運んできたジュリアが唐突に尋ねた。

「いや」
「貴方が植えたの? ミシェル」

 ミシェルは窓から見える、燃える庭へ視線を向けた。

「いや、植えたのは死んだ母だ」
「そう……。あの花ね、『悲しい思い出』っていう花言葉を持っているのよ」

 食事をしていたミシェルの手が止まった。そして膝に置いていたトレイごと、食事を脇の台へ置く。

「……ジュリア。おいで」

 ミシェルに手招きされ、ジュリアは椅子から降りてミシェルの側へ寄った。ミシェルは首に巻かれたリボンに手をかけた。寝る時にでさえ外さなかったそれを、ミシェルはするりと解いた。

 リボンが解けてあらわになったミシェルの細い首には、赤紫色のあざが浮かび上がっていた。

「……ミシェル……。どうしたの、これ!」

 細い紐で縛ったような痕ではなく、人の手で締め付けられたような痕。ミシェルがこの傷を他人にさらけ出すのは初めてのことだった。

「……昔、私の父はどうしようもない男でね。家を空けては町で娼婦や他の女に手を出して、家の金を使って賭け事で遊んで、そんな暮らしをしていた」

 ジュリアは黙っていた。今まで隠されていたものが、彼女にだけ明かされる時が来たのだ。

「母は大人しい人で、そんな父に何も言うことができず、屋敷の一室に閉じこもって泣いてばかりいた……。幼かった私はどうしても母の笑顔が見たくて、色々なことを試みたよ。しかし、母の心は深い闇に囚われて、私ではどうすることもできなかった」

 ジュリアはその母の姿に、自分を重ねた。自分ももしかしたら記憶をすりかえることで、闇に囚われていたのではないかと思った。

「ある日、いつもの様に私が母の部屋を訪れた。その日母はいつもよりは上機嫌でね。私を部屋へ招き入れてくれた。いつもは椅子に座ったまま泣いてばかりで動かないのに。嬉しかったよ。もしかしたら笑ってくれるのではないかと思った」

 ミシェルはジュリアの頭を撫でた。

「だが、私に近づいてきた母は、私を通りすぎて部屋の扉を閉めた。内側から鍵をかけたんだ。私はどうしてなのか分からない。振り返ると母が泣いていた。私は呆然となって、立ち尽くした。そんな私の首に、母がゆっくりと手をかけた」

 ジュリアは口を両手で覆って悲鳴を押しとどめた。

「一緒に死んでくれと泣く母に、私は逆らうことなどできなかった。抵抗すれば、私の方が強いことは分かっていたけれど、母の苦しみも、悲しみも、痛いほどよく分かったから……。私は意識を失い、それを死んだものと勘違いした母は、燭台で首を突いて死んだ」

 ジュリアの瞳に涙が浮かんだ。ミシェルがそっと引き寄せるとジュリアは自らミシェルの胸にもたれた。

「母が死んでも、父は変わらなかった。私は父を許せぬまま、やがて父も事故死した。私は一人でいる時間が多くなった。悲しい思い出ばかりの屋敷にいるのも辛くて、アルスにとても心配をかけてしまった。そんな時だ、ヘンリー先生が私の屋敷へ来られたのは。アルスが呼んでくれたそうだ。薬の知識を身につけ、私はなんとか薬師としての生活が送れるようになった。だが、ヘンリー先生が医師として癒したかったのは、私の心の傷だった。私は心から先生を信頼していた。ずっと手紙でのやりとりも続けていたよ。しかし、私は過去の傷をさらけ出すことがとうとうできなかった。最後に、先生から受け取った手紙がある。ジュリア、引出しの二段目を、この鍵で開けてくれ」

 ジュリアは涙をふいて、ミシェルから鍵を受け取った。ジュリアは銀製の鍵を差込み、引出しを開けた。そこには手紙が一通。ジュリアはそれを持ってミシェルの側へ戻った。

「読んでごらん」
「……良いの?」

 ミシェルは優しく笑って頷いた。


ミシェル君


 君と知り合ってから随分とたった。君ほどしぶとい患者は今まで私のところに来たことがない。それ程君の傷が深いのだろう。私も長くはないから、君の治療は半端に終わってしまうだろう。私は薄々気付いているのだよ。君の傷が、男の私には決して治せないものであるということがね。

 私には可愛い養女がいる。両親、兄弟、自分の生まれた町すら覚えていない少女だ。それは前にも話したね。彼女、ジュリアを側においているのは過去のことを思い出させようとしてではない。他の記憶にすりかわっているのならまだしも、ジュリアは何一つ覚えていないのだからね。それは初めから何も記憶していないのと同じ事だ。ジュリアは過去の記憶がなくとも生きていける。少なくとも彼女の笑顔があれば。

 彼女を君に預けたい。勿論私の老い先が短いことだけが理由ではない。これを読んだ時の君の顔が頭に浮かぶようだが……。私は彼女なら君の傷が癒せるのではないかと踏んでいるのだよ。

 とにかく一度私の元へ来て欲しい。最近学校の雰囲気がおかしい気がする。私の気のせいかもしれないが、なるべく早く来てもらいたいと思っている。

 アルス殿によろしく。

                                                        ヘンリー=スタンス

 ジュリアは読み終えると顔を上げてミシェルを見た。

「だからパパが殺された時、すぐに駈けつけたのね。私を迎えに来るために?」

「私は断るつもりだった。先生に癒せなくて、十四の少女に癒せる傷があるものかと思ってね。しかし、先生が亡くなって、結局私はお前を引き取った。その時にはお前も心の傷を負っていて……。お前はその傷を克服して……、今度は私の番だと思ったよ。お前と暮らして、段々と癒されている自分に気付いて、少し悔しかった」

「どうして?」

 ヘンリーの手紙に、ミシェルは手を置いた。

「先生の考えた通りになって……超えられない事に気付いたからだ」

 ミシェルの答えに、ジュリアは笑ってこう言った。

「当たり前じゃない! 息子は父には勝てないものよ」
「息子?」

「私と結婚すれば、いずれはそうなるわ」
「お前、まだそんな事を!」

 ミシェルはジュリアを捕まえてその頭を拳でぐりぐりと押した。

「痛いじゃない! 仕返ししてやる!」

 笑いながら二人はじゃれ合った。その姿は父娘のようであり、兄妹のようであり、また。

「あ〜ぁ、結局いちゃついてるな、ミシェル」

 恋人のようでもあった。

「ルイス!」

 ジュリアはベッドから飛び降りてルイスに抱きついた。ルイスが抱え上げると頬にキスをする。ジュリアの髪が少しくすぐったそうに、ルイスは笑った。そしておどけたように溜息をつく。

「俺だって熱く抱き合いたいよ」

 ジュリアをベッドに降ろし、自分は椅子に座る。

「相手には不自由していないだろう、お前」
「違うのよ。ルイスには本命の人がいるの」
「初耳だな」

 そうだったかな、とルイスがジュリアと共に首を傾げた。

「王妃の生誕祭二ヶ月くらい前かな。カルロス将軍と俺の部屋を間違えてさ。めちゃくちゃ美人! 一目惚れだよ」
「……分かったからその奇妙な笑いは止めろ」

 ミシェルが注意してもルイスの笑いは止まらない。

「二回目に会ったのは生誕祭当日。城の中庭で運命的な出会いさ!」
「そうだったの?」

 これはジュリアも初耳だ。

「名前は? 何て言うの?」
「忍びで来ているから教えられない。今度会った時に教えるからって、これを俺に」

 ルイスは女性から受け取ったイヤリングをジュリアに渡した。ミシェルはそれを見て顔色を変えたが、二人には気付かれなかった。赤い薔薇の細工。

「可愛い!」
「彼女のお気に入りで、今度会った時に返す約束なんだ」

 ルイスは幸せ絶頂である。

「……彼女の容姿は? ルイス」
「美しい純金の髪に白い肌だろ。瞳は大きく蒼色で、唇は少し小さめで紅くて、スリーサイズは……」
「ちょっとルイス。何でそんなことまで知ってるの? 二回しか会ってないんでしょ?」

 顔を赤らめて怒るジュリアに、ルイスは意外そうな顔をした。

「俺を誰だと思ってるの、ジュリアちゃん。経験豊富だから見た目で分かるんだよ。上から八十五、五十六、八十二かな。最初に会った時の服は純白で、次は深紅。どっちもよく似合ってたさ」

 ミシェルは頭を抱えた。彼女だ。ルイスの証言通りだとすると、ミシェルの頭にそれ通りの人物が一人浮かぶ。いや、一人しか浮かばない。

「ん? どうかしたか、ミシェル」
「…………いや……」

 ミシェルはすでにキプロス島への旅行を決めていた。ジュリアがずっと看病してくれたことへの礼と、暗殺団を暗殺した薔薇姫に会うためである。ルイスも許可が出たら連れて行っても良いかと思っていたが、考えを変えるべきかもしれない。

 彼女の真意が分からない。

 今度会ったら名前を教えると約束したようだが、薔薇姫ですとでも名乗るつもりなのだろうか。それともイヤリングを諦めて一生ルイスと会わないつもりなのか。

 …………ルイスは置いて行こう。

 ミシェルがそう決心したのは、腹部に受けた傷が完治直前のことだった。

前編 / Flower Top